なりたい仕事のことを知る ナリカタ

  • ナリカタコラム
誰かと共に作り上げ、多くの人と喜び、楽しさをシェアできるのがミュージシャン!
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ドラマー/パーカッショニスト
Los Angeles・MUSICIANS INSTITUTE(M・I) P・I・T卒。Joe Porcaro氏などに師事。
大阪スクールオブミュージック専門学校卒。
94'よりCUBAへ計6回短期留学し、Drum&TimbalesをJose Luis Quintana"Changuito"氏に、CongaをTata Guines , Miguel"Anga"Dias氏に、Bata drum,chekereなどのCuban PercussionをOscar Valdes氏に師事し、幅広くそしてより深くキューバンリズムを習得。

〈現在までの主な共演者、レコーディング、TV・ライブサポートなど〉
秦基博、JUJU、持田香織(ex.Every little thing)、コブクロ、Gospellers(Opening samba performance cordination)、Rhymester、かりゆし58、郷ひろみ、織田裕二、ピストルバルブ、Soulhead、高宮マキ、亀渕友香&Voja、劇団四季ミュージカル・ライオンキングほか。

先輩に誘われて始めたバンドでドラムを始めた

中学2年のとき、2歳上の先輩に誘われてバンドを始めて、彼が洋楽が好きだったので、その影響で音楽を聴き始めました。どうしてドラムだったのか? けっこう運動ができたので、たぶんそれでじゃないでしょうか。当時は楽譜もなかったし、ひたすら曲を聴いて耳コピーしていましたね。仕事として考えたのは、進路を決めるとき。高校では部活でバスケットと陸上をやっていて、将来のことはまったく考えていませんでした。バイクに乗っていたので車とかバイク関係か、音楽をやっていたからドラマーのどちらかにと漠然と思っていました。でも、割とみんながバイクとか車関係の学校の方にいったから、あまのじゃくなので音楽やろうかなって (笑)。

その頃は、ヴァン・ヘイレンがすごく好きでした。パンク音楽聴いたり、TOTOを聴いたり。だから、進路は音楽雑誌を見て、こんな学校があるんだと知って決めました。僕らの時代は1年目は日本で、2年目はアメリカで学ぶというシステムがあったので、そこに飛びついた感じですね。2年目にアメリカに行ける、というのが決め手でした。そして、入学してみると、僕は一番下のクラスだったんです。みんなは大阪や京都で音楽教室などで習っていて、上手かった。僕は福井県でそういう習えるところがなかったので、独学でしたから。でも、落ち込むこともなくそのまま普通にやっていましたね。いまから考えると非常識だけど、電車の中でずっーと練習したり、学校に来てずっと弾いたり叩いたり。1日10時間以上も好きなことをやれる環境が、本当に楽しかったです。それでちょっとずつレベルも上がっていって、9ヶ月くらいで一番上のクラスに上がったんです。それが一番うれしかったですね。

世界観が広がったアメリカ留学

今、肩書きはドラマーとパーカッショニストの2つにしています。パーカッションは専門学校を卒業したあと、CDを聴いてこの人に教わりたいと思ったのが、キューバのラテン音楽の神様と言われているチャンギート。個人でキューバに約2年ほど行きました。専門学校の2年次に行ったアメリカの音楽学校には、世界中から人が来るんですよ。ヨーロッパ、ブラジル、韓国や中国。世界観がすごく広がりますよね、僕は海外に行ったことがなくて初めての海外が留学だったから、そういう刺激がすごく大きかった。それに同じ曲をやるのも、アメリカ人がやるのとブラジル人がやるのと全然違うんですよね。だからいろんな国のものを習えればいいなと思ったのがきっかけですね。

自分に自信がないと、ステージには立てない

以前観たスティングのライブビデオの中で、サックスの人が言っていた「ミュージシャンだったらすべての音楽にチャレンジするべきだ」という言葉が、今でも変わらずに残っていますね。同じ曲でいつも同じことをすることもすごく大事だけれど、何かしらチャレンジすることは残していますよね。こういう風にしてみたらどうだろうかとか、こう変えてみたらどうだろうとかと常に思っているし、この曲のよさを出すためには?いうのを常に考えて演奏しています。